弁慶さんルート・2月 − 如月 五
「頭様」
「何かな?」
夜の闇の中、五条橋の診療所から典薬寮の自室に戻る道中、
和気定成の乗った牛車の傍らを歩く、供の1人が声をかけたのだった。
「どうも、謀られたのではないかという気がしてなりません」
「何を、ですか」
「あの弁慶という男、結局は面倒な治療を頭様に押しつけて、逃げ出したのではないでしょうか」
「どうしてそう思うのです?」
「もう五日になろうかというのに、何の音沙汰も無いではないですか。
薬草もかなりの量を使ってしまいました。宮中の診療も滞りがちだというのに……」
「しかし、重篤な患者は新たには増えていませんからね」
「それなんですが、どうやらこの流行病も沈静化に向かいつつある様子。
それというのも頭様のこうした毎日の御苦労あってのこと。そんな頭様の好意につけ込んで……」
「しかし、彼の言った事を守っていた人間の罹患率は圧倒的に低い。これは事実ですよ。
この点、我々典薬寮は無力に等しかった。
お陰で主上も、法住寺殿も、太政大臣様以下多くの殿上人も、この流行り病に罹らずにいるのは事実です」
「偶然なのでは」
「偶然? あなたらしくない言い方ですね。
典薬寮の医博士ともあろう人が、この統計と確率を以てして『偶然』という言葉に貶めるのですか?」
「そのようなことは……。そうではありませんが、しかし、もしこれが何らかの謀なら」
「謀?」
「かの武蔵坊弁慶は源氏の軍にあって、その人有りと名を馳せた策士。
しかも、かつて六波羅や福原に出入りして入道相国とも懇意だったと聞いております。
それがいつの間にか源氏に身を置き、征西軍の軍師として様々な策略を廻らせて平家と対峙してきた男。
疑うなという方が、無理ではございませんか」
男は言っている内に、自らの言葉に自ら納得たようで、さらに語気を強める。
「そうですよ。
病を何らかの方法で流行らせる。
頃合いを見て現れ、病の対処法を教え、救国の主となる。
考えてみれば、今回、武蔵坊の現れた時期が出来すぎではありませんか」
「救国の主となって、どうするのです?」
「そ、それは……、院や帝に取り入って出世をするか、自分の流派・寺院の建立を」
「その点では、そんな遠回りなことなどしなくとも、もうすでに弁慶殿は救国の主ではないのですか?
白龍の神子の八葉として」
「それこそ、その話の方が信じがたいですね。
坊主の読経や神儀官の祝詞が、現実にはどれほどの役に立った事がありましょうや。
ましてや怨霊だの禍神だの龍神だのと。
それこそ説話や伽物語の世界ではないですか」
(ああ、そういう見方をするのか)
そう典薬寮頭・和気定成は思う。
(わずか半年前のことだというのに、もう……)
そして、弁慶の寂しそうな笑顔を思い出していた。
(この者は、宮中の典薬寮という狭い世界にだけ居たために、世間も、源平の長きに渡る戦も、
ましてやそこで苦しんできた市井の人々の実情など、『見て』すらいないのだ。
無理も無いのか。……弁慶殿、あなたは何と辛い道を歩いておられるのか)
そう涙するのであった。
「それでは僕が戻るまで、どうか市井の人々をお見捨てなさいませんように」
「約束しますよ」
「ああ、それと」
弁慶は定成をジッと見つめて言った。
「この事で、あなたもあちこちから無用な怨みを買うことになるかも知れませんので
身辺の警護は充分になさってください」
「怨み? はて、人の命を助けることで、怨みを買うとは思いませんが」
「『自分を優先しない者は味方ではない。味方ではない者は敵に違いない。
敵は排除しないと、こちらが排除されてしまう』と……。
悲しいことですが、長い戦の間に『猜疑心』という魔に囚われた人というのは、
想像以上に多いのではないでしょうか」
「『猜疑心』……ですか……」
「内裏では『主上をそっちのけで、市井の下賤など診察するとは何事か』という思いは絶対にあります。
法住寺では『なぜ院や院の側近を優先しないのか』という思いは間違いなくあるでしょう。
貴族の方々も『我々を下賤以下に扱いおって』という、プライドを傷つけられた怨みは抱くでしょう」
「ぷらいど?」
「平家も源氏もそうでした。味方に引き込めないものは『敵』。
自分に便宜を図らないものも『敵』。
敵は驚異になる前に『排除する』。
そんな短絡も、十年以上続いた戦の世の悲しい性ですからね」
「それは」
「ええ。その考え方で、僕は源氏の戦略を組み立てていましたから。
その僕が言うのですから、絶対、間違いありません。
これほど、間違いであって欲しいと思うことも少ないですが……」
「なるほど、説得力、というものですか」
「ええ、悲しいことに。だからこそ、です。
あなたは、この状況を正しく理解してくださった人であり、この状況を打開できる知識と地位と、
そして何よりも、宮中の方としては異例な程の行動力をお持ちの方です。
今となっては、神子も八葉もいないこの世界で、あなたは僕が頼れる唯一の人なのですから」
「お気遣いいただき……。……そうですね、分かりました。
充分、注意して、警護もつけましょう。ま、臆病者と蔑まれるかも知れませんがな」
「『命あってのものだね』です」
「私とて、白龍の神子の世界の医療というものを知るまでは、そう簡単に彼岸に旅立つ気はありませんよ」
「では」
「もう、『その時』ですか」
「ええ、こちらの時の流れで何時になるかは分かりませんが」
「早の御帰還を」
「最善を尽くします」
そう言って弁慶は、胸の逆鱗を握りしめ
「さぁ、白龍。お願いしますよ」
弁慶の周りを光が包む。
「おお、これが……」
食い入るように見詰める定成が、それでも溢れる光に直視できなくなり、思わず眼を瞑った
その時
フッと光の柱と共に、弁慶が消えたのだった。
「これが、……龍神の力……」
眼の奥に焼き付いた光の柱に、
改めて、龍神と白龍の神子、そしてその八葉という御伽話のような現実を実感する和気定成であった。
光の柱が消える。
波音が大きく聞こえる。
潮の香が、弁慶の胸に染み入る。
弁慶がゆっくりと眼を開けると、左手に江ノ島の展望灯台が光を放っていた。
「七里ヶ浜…、ですかね。平成の」
何故リズヴァーンの教室に戻らなかったのかが疑問。
腕に戻った時計に眼をやると、リズヴァーンの教室で異世界に飛んでから数秒も経過していない。
異世界で過ごした怒濤の日々は、一炊の夢と化していた。
念のためにと胸ポケットに入っている携帯を取りだし、日にちを確認する。
「ああ、間違いないですね」
この世界的には、弁慶は極楽寺のリズヴァーンの教室から、一瞬で七里ヶ浜の海岸に跳んだことになる。
「なんで、七里ヶ浜、なのですかね?」
そう独りごちながら、弁慶は携帯の短縮ダイヤルを押して、海岸通りへと上がる石段を歩いていく。
「ああ、九郎ですか? 今夜の食事ですが
「失礼します」
そう言って入口の扉を開けた弁慶は、自分を送り出した時そのままの姿勢で微動だにせず、
たぶん、ずっと自分の帰りを待っていたのであろうリズヴァーンの姿を見て、驚き
一瞬の後、目頭が熱くなるのであった。
こちらの世界的には、一瞬で跳んだ七里ヶ浜から極楽寺まで歩いて来た時間が経過したに過ぎない。
しかし、弁慶にとっては、異世界に跳んで、和気定成と共に診療をしてきた、
あの長い時間もリズヴァーンはこの姿勢のまま、自分の無事を祈っていてくれたのだ、と
そう思わざるを得ないのだった。
「リズ先生……」
「弁慶、…無事……か」
「ありがとうございます」
「いや、ほんの一瞬に過ぎない」
「それでも……、ありがとうございます」
「…で…」
「まだまだ僕は未熟です」
「……」
「僕としたことが、生兵法は何とやら。痛感しました。」
「それが分かったこと。
無事に引いてくることができたこと。
それで良いのではないか」
「ええ、そうですね。得難い協力者とも巡り会えました。一歩前進、です」
「そうか」
「この逆鱗、また、近々お貸し願えませんか」
「問題ない」
「ありがとうございます。それと、このことは九r」
「安心しなさい。九郎だけでなく、誰にも口外はしない」
「ああ、リズ先生には敵わないな」
そう言って、弁慶はリズバーンに逆鱗を差し出した。
「では、失礼します」
そう言って一礼して、立ち上がりかける弁慶の背中に
「運命には」
リズヴァーンが語りかける。
「え?」
「運命には、上書きできる運命と、上書き出来ない運命がある」
「上書きできる運命と、上書き出来ない運命……ですか」
「うむ。逆鱗は便利な道具などではない。運命を背負う覚悟が必要」
「運命を背負う覚悟……」
「うむ」
「それが……望美さんの凄さ、ですね」
「神子の覚悟は、……貴い」
「僕は……、僕にはその覚悟が、あるのでしょうか」
「それは、弁慶自身が決めることだ」
「『便利な道具』などにしようとは……思っていないのですが」
「そうか。ならば……、弁慶の決めた道だ。常に正しいと信じよう」
「ああ、望美さんによく仰っていた言葉ですね。
これ程までに、重い言葉だったとは……、思いもしませんでした。肝に銘じましょう」
「今日は、ここで休んでいきなさい」
「え? しかし、九郎に食事を」
「九郎には私から連絡しよう。まだ、弁慶には異世界の匂いが染みこんでいる」
「え? 向こうの? ですか……」
「九郎の、そういう勘は鋭い。必ず、弁慶のその匂いを嗅ぎつけるに違いない」
「そう、……ですね。九郎は確かにそういう点では天才ですからね」
「景時に頼んでおく」
「先生の御迷惑では」
「問題ない」
「分かりました。それでは、御言葉に甘えて」
「うむ。だから弁慶、お前もゆっくり休みなさい。休むことも重要なことだ。
それに、……フッ」
リズヴァーンは静かに笑って、
「コレも用意してあるのでな」
そう言ってどこから取りだしたのか、一升瓶を差し出した。
「ああ、いいですね」
「異世界の話を、私も少しは聞きたいと思うのだが」
「そうですね。では、今夜はゆっくりと異世界の話を肴に飲み明かしましょうか」
「うむ」
「そういえば、こちらの世界の清酒にいたく興味を持った方が居りましてね」
「ほう」
「次に向こうに行った時には、その方とも酒を
10/09/21 UP